怪文書

オタクに幸あれ

「2.75次元」?――声と音が加えた0.25次元

 『金色のコルダBlue♪Sky First Stage』を観に行きました。テニミュ以外の2.5次元舞台を観るのは初めてで、驚き、考えさせられ、感動することが多く、終演後は鼻をスンスンしながら夜の新宿を歩きました。 

 以下、舞台のネタバレを少し、原作のネタバレを盛大に含みます。

 

 

原作について

 原作は、『金色のコルダ3』という恋愛シミュレーションゲームです。このゲームを2014年にアニメ化したときのタイトルが『金色のコルダBlue♪Sky』で、舞台は、アニメをベースに、原作であるゲームの要素を多く含んだ演出となっていました。原作のタイトルには『3』とありますが、同作の1・2との繋がりは「わかる人はわかって面白い」といった程度です。舞台を観るにあたっては、前作の知識はいっさい必要ありません。

 ストーリーは、室内楽アンサンブルコンテストで全国優勝を目指す高校生たちの青春もの。ゲームでは、女性主人公・小日向かなでを操作し、全国優勝を果たすと同時に意中のキャラクターとの恋愛をすることをが目的です。しかし、舞台版では、攻略対象の一人であった如月響也が主人公となります。ゲーム・アニメと舞台では主人公が異なりますが、特に違和感はありませんでした。逆に、主人公が少年になったことで、少年漫画のような熱さや青くささが強調されて、2.5次元舞台を好む層への受けが良くなったのではないかと思います。

 

舞台のみどころ(ききどころ)

①声

 開演前アナウンスは神南高校の東金・土岐の2人が担当していたのですが、第一声から客席がどよめきました。あまりにも原作の声優さんの声に似ていたからです。谷山紀章さんかと思ったら碕理人さんでした。上田堪大さんは、‘土岐弁’を話していました。2人に限らず、他のキャストも、声や話し方をかなり似せてきている印象を受けました。

 前回の記事では書かなかったのですが、8月のミュージカル講座で松田さんは、観客はキャラクターが原作に近いか近くないかを見ているので、漫画原作の2.5次元舞台において「声はどうでもいい」と明言していました。漫画が原作であれば、その後アニメ化して声がついていても、舞台では声をアニメに似せる必要はないと。アニメはあくまでも原作の派生物のひとつで、舞台より先行していたとしても、アニメと舞台とは同列に扱っても良いだろうと、私も考えています。

 とはいえ、テニミュでも、アニメを参考にしていたり、声優さんにアドバイスをもらったりしているようです。たとえば海堂の声にドスがきいていなかったり、遠山金太郎の声のトーンが低かったりしたら、間違いなく違和感を覚えるでしょう。ですから、ミュージカルでも海堂は低い声で喋り、金太郎はひっくり返らないか心配になるような声を出して叫びます。ただし、それはあくまでもキャラクターのビジュアルや性格から想像できる範囲内での高さや低さ、速さ、訛り等の特徴に留まっています。声のモノマネまでは求められていないのだろうと感じます。日本2.5次元ミュージカル協会代表理事の松田さんも「キャラになり切るというのは、モノマネではないのです。」(*1)と話しています。

 しかし、『コルダ』の原作はゲームです。キャラクターのビジュアルや声、さまざまな情報がほぼ同時にユーザーへ与えられます。観客が‘原作’を大切にしているのならば、2.5次元化にあたり、声や話し方は大きな要素のひとつなのだと思います。特に、女性向け恋愛シミュレーションゲームでは声優さんを売りにしていることが多いですし、声優さんによるイベントを長く続けてきたネオロマンス作品であればなおさらです。

 ネオロマンスのイベントでは、声優さんがキャラクターのコスプレをして出てくることも少なくありません。声優さんとキャラクターが相互に作用した文化があるため、『コルダ』は単なる2次元ではなく、声・音の部分でもう少し厚みのある――たとえば2.25次元と表現できるような――次元にあったのではないかと思います。キャラクターという一人の人間を構成する要素のひとつとして、「声」は必要不可欠とも言えるでしょう。もちろん、単なる声のモノマネではありません。キャラクターらしい喋り方、間の取り方、イントネーションのつけ方、全てを含めての「声」です。舞台版『コルダ』では、原作を2.25次元たらしめていたその「声」を、2.5次元に持ってきていました。

 

②音

 『コルダ』の舞台は生演奏です。2.5次元舞台では録音が主流ですが、『コルダ』原作のテーマは音楽。その一番大切な臨場感を演出できないなら、2.5次元化とは言えません。生演奏は必要不可欠です。生の音楽がない『コルダ』なんて、試合シーンでずっと踊っててテニスの動きを一切しないテニミュみたいなものです。

 ヴァイオリン2人、ヴィオラ、チェロ、トランペット、トロンボーン2人、チューバ、ホルン……演奏シーンの再現はもちろんですが、要所要所のBGMにもクラシックの名曲がたくさん使われています。そのBGMの使い方もすごく良い。キャラクター数人が掛け合いをしているとき、後ろや端で誰か別のキャラクターが楽器を演奏(練習だったり‘ライヴ’だったり)していて、その曲がBGMとして活用されているのです。神南の弾く「死の舞踏」がBGMになってしまうなんて、想像すらできませんでした。でも、しっくりくる。ゲームには常にBGMがあるので、それが自然で、原作に近い演出とも言えます。この音楽も、声と同じく、2次元に厚みを加える0.25次元の部分なのではないでしょうか。

 生の音楽が持つ力は大きく、冒頭のメインテーマ曲が流れたときは鳥肌が立ち、大会シーンではストーリーと相まって涙があふれ、フィナーレの演奏が終了したときには「ブラボー!」と叫んでいました。『コルダ』では、原作中で良い演奏をするとそう言われるので、おそらく舞台版の観客の姿勢として「ブラボー!」は必須だと思います。素晴らしい演奏には拍手と歓声を送ろう。 

 メインテーマをアニメのOP曲である「Wings To Fly」にしたところもすごく良かったと思います。あれが「BLUE SKY BLUE」だったら、さわやか成分が強すぎます。「WTF」は響也にもよく合っていました。

 

 

 如月響也役の前山さんは、取材に対し「お芝居の力で音楽を盛り上げたい」「2.75(次元)くらいの気持ち」(*1)と話しています。2.5次元にプラスされた‘0.25次元’。彼がどういう思いで2.75次元などと表現したのかは推し測ることはできません。しかし私は、もともと2次元の「キャラクター」「ストーリー」プラス0.25次元の「声」「音」を2.5次元に持ってこようとした結果、他の作品よりも0.25次元分多くなってしまった、そして2.75次元が発生したのだと考えています。

 

 上記のような感覚を味わえるので、『コルダ』舞台は原作にふれていなくても楽しいけれど、原作をプレイしていたらもっと楽しいと思います。

Amazon.co.jp: 金色のコルダ3 フルボイス Special (通常版): ゲーム :原作・本編。主人公・小日向かなでを操作し、星奏学院の仲間と全国優勝を目指すストーリー。もちろん他校のキャラクターとも恋愛が可能です。舞台版の主人公である響也の心情もより丁寧に描かれているのでぜひ。

Amazon.co.jp: 金色のコルダ3 AnotherSky feat.至誠館 (通常版): ゲーム :今回の舞台でライバルとなった至誠館高校に焦点をあてたファンディスク。「もしも主人公が星奏学院ではなく至誠館高校に転校していたら……」というifストーリーです。至誠館を全国優勝させることができます。

 

 

 そして、『コルダ』原作および舞台は、『テニスの王子様』「ミュージカル『テニスの王子様』」ファンが非常に受け入れやすい作品だと思います。その理由は下記の3つです。

 

①スポ魂!超文化部

 魂こめたチーム戦。それが『金色のコルダ3』です。

 原作のゲーム発売前、中央線の女性専用車両1両まるごとに『金色のコルダ3』広告が掲示されたことがありました。そのとき、「闘う、奏でる、恋をする」というキャッチフレーズに驚いたのを覚えています。その謳い文句通り『金色のコルダ3』では、ヴァイオリンやピアノなどからイメージされるハイソサエティな雰囲気はやや薄れており、勝ち負けをかけた熱さが前面に出ています。
 物語では、大会の前に学内選抜が行われます。オーケストラ部部員の中から、アンサンブルコンテストに出場するメンバーを選ぶというものです。ひとことで伝わるよう言ってしまえば、校内ランキング戦。転校してきたばかりのかなでと響也は、そこで実力を見せ、元からいた部員を黙らせてアンサンブルメンバーに入るのです。
 そして、無事アンサンブルメンバーに選ばれるとーーレギュラーの座を手に入れることができるとーー大会に出場することができ、東日本大会、全国大会へと話が進んでいきます。 大会では、主人公(主役校)VSライバル校という構図がはっきり描かれます。少年ジャンプでよく見るスポーツ漫画のように。学校ごとにカラーがあってまとまっているので、テニプリに慣れている人は『コルダ』のチーム意識を受け入れやすいと思います。

 さらに舞台版では主人公が思春期と反抗期のかたまりのような少年になったので、前述のとおり恋愛要素は控えめになり、若者たちの闘いが強調されています。若い男の子たちによる熱いチーム戦、みんな好きでしょ?『コルダ3』は、そういう、甲子園や箱根駅伝に類似したジャンルなんです。

 

②観客が存在しても良い

 舞台と客席の関係が、単に「お芝居をする側」と「傍観する側」では、2.5次元舞台の魅力は減ってしまうと思います。しかし、『コルダ』の場合は、観客に役割が与えられています。

 『コルダ』原作では一般市民や生徒の全員名前がついていて、話しかけたり、演奏を聞かせたりできます。モブだけど、名前がついているんです。(参考:【ネタバレしかない】金色のコルダ3 AnotherSky feat. 至誠館 ~モブすら面白い~ : -twilight fantasia- )主要キャラクターは学内どころか街中の至るところで楽器を鳴らしているので、観客はその聴衆として存在していても自然なのです。星奏学院の生徒として、オーケストラ部部員として、山下公園や元町の通行人として、神南のファンとして、大会の観客として存在しても良いのです。神南のライヴシーンでは拍手だけでなく黄色い歓声を求められるのですが、それは舞台だからではなく、原作でそういう場面があるからなんです。

  観客が、「舞台」ではなくその「世界」のモブとして存在しても良い。これはテニミュや、ほかのスポーツものの2.5次元舞台と共通しているので、入りやすいのではないかと思っています。

 

③否めないテニス感

 とりあえず見ればわかります。

 

 でも、彼らは単なる「キャラ」ではなく、ひとりの「人間」として描かれているので、見ればキャラクターの魅力を感じとれるはずです。

 もう本当に、なんでもいいからとにかく観て!面白いから!!!コルステめちゃくちゃ面白いから!!!!至誠館激アツすぎて泣くから!!ブラボーしか言えないから!!!キャラクターによっては魅力が最大限に出し切れてない子もいるんだけど、でも本編響也ルートだからそこはちょっと目をつぶって!!続いたらアナスカとかやるかもしれないし!ね!!オープニングGFGでエンディングAmbitiousなアナスカ至誠館があるかもしれないし!冥加さんも出てないし!天音までやってほしい……函館まで……おねがい……

  

 

 

ニコ生配信決定!!: 音楽劇「金色のコルダBlue♪Sky First Stage」 みんなで観よう。1,600円です。

 

 

(*1)「テニミュ」のオーディションはガチだった! 2.5次元ミュージカルの秘密(後編) | ダ・ヴィンチニュース

(*2)音楽劇「金色のコルダ」生演奏たっぷりで開幕!「2.75次元くらいの気持ち」 - コミックナタリー

キャラクターの「生」と「2.5次元」について

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 ミュージカル講座へ行ってきました。副題は「2.5次元ミュージカル――どこから来て、どこまで行くのか?」。

 ゲストはネルケプランニング代表取締役の松田誠さん、先代越前リョーマの小越勇輝さん。パネリストに劇作家の青木豪さん、篠原久美子さん。そして司会は青井陽司さん。登壇者の方々は「2.5次元」にとても理解があり、「(いわゆる正統な)演劇」側の視点で「2.5次元」舞台を真面目に語ってくださっていたのが印象的でした。

 司会の青井さんは、「歌舞伎なら『忠臣蔵』、宝塚なら『ベルばら』、2.5次元なら『テニスの王子様』といったように、よく知らない人でも名前を知っている」演目としてテニミュを紹介していました。テニモンは感激のあまり開始1分で泣きそうでした。そんな当日のメモが大量に残っていたので、まとめておきます。

 

 

①そもそも「2.5次元」とは?

 今回のミュージカル講座参加者のほとんどは「2.5次元」にふれたことがあるようでしたが、あらためて「2.5次元」とは何か、登壇者がそれぞれの解釈を語ります。

 松田さんは「マンガ・アニメ・ゲームなど、平面の絵を舞台化したもの」と表現。

 司会の青井さんは「2次元を3次元で表現したものだが、あえて0.5到達しないように作っているのでは?」と、とても興味深い提言をされていました。これに関してはまた後で、などとおっしゃっていたのですが、残念ながらこの件についての続きを聞くことはできませんでした。

 ゲストの小越さんは「非現実を現実にした、どんな人でも楽しめるエンターテイメント。こんなの舞台化しちゃうんだ!と思わせるような舞台」と話していました。

 「2.5次元」は、もともとファンの間で発生した言葉ですが、言い得て妙だとして、制作側がそれをオフィシャルにしようと動いたそうです。「『マンガ・アニメ・ゲームを舞台化したもの』と総称され、どことなくぼんやりしていたものが、『2.5次元』という新しい言葉の発生によって印象づきやすくなった」と、登壇者の篠原さん。英語にすると「ツー・ポイント・ファイブ・ディメンション」。海外でそう言うと、ポカーンとされることが多いようです。

 

 ちなみに、(一社)日本2.5次元ミュージカル協会では、「2.5次元ミュージカル」を下記のように説明しています。

 漫画・アニメ・ゲームが原作の舞台化作品、それが‘2.5次元ミュージカル’!!/2次元の世界観をそのまま3次元の舞台で再現!/忘れられないあの名シーンが、胸を熱くしたあのセリフが、今、あなたの目の前に…。/すでに多くの人を虜にした演劇の新ジャンル、/2次元でもない、3次元でもない、新次元の興奮を体感しよう!!(*1)

 2次元の「世界観」「名シーン」「セリフ」……私のような2次元オタクは、なにかの作品が舞台化されるとき、キャラクターを大切にしてくれるかどうかを重視しているように思うのですが、一般向けの紹介では「キャラクター」という表現は使わないようです。

 「2.5次元」はファン発生と言っていましたが、私もだいぶ前からそれを使っていたような気がします。『テニスの王子様』ファンであれば、ファンブック『10.5』などで「.5」という表現が使われていたので、親しみやすかったのかもしれません。たとえば10.5巻(2001年11月)は、10巻(2001年9月)と11巻(2001年12月)の間に発売されたので、数の順序で10.5になるのですが、原作のコマからはみだした部分としての「.5」という意味も持っています。「2.5次元」はマンガのコマとコマの間を埋めようとしますが、ファンブックも、本筋には描かれていない――本来描く必要のない――マンガのコマの外の世界です。父親の職業だとか好みのタイプだとかおこづかいの使い道だとか、本当にどうでもいいことがたくさん書いてあります。けれど、そのどうでもいい情報が『テニスの王子様』のキャラクターたちに人間らしさを加え、テニミュの舞台上でも活かされています。次元もファンブックも、「0.5」足されることで、平面の人物が「生きている」ことをより実感できるのではないでしょうか。

 

 

②「テニミュ」に焦点を当てて――演者とキャラクターの関係

 約4年間のテニミュ2ndシーズンは、当初は2年間で42巻まで上演する予定だったそうです。しかし、やはり無理ということになり、そんな中で「最後までやりたい」と言っていた小越さんに、代替わり後もやってみないかと声が掛かったとのこと。500回以上の公演をこなした小越さんを、どなたかが「2.5次元界の森光子」と呼んでいました。

 小越さん自身は、越前リョーマとしての生活を振り返り「4年間のなかで、(越前リョーマの年齢である)中1から離れていって、無意識のうちに子どもっぽさがなくなってしまう」「周りから指摘されることもあり、自分でもよく気を付けていた」と話します。俳優の稚拙さとキャラクターの未熟さがリンクして、ふたつの成長を見ることができるテニミュ。しかし、俳優としての成長が役としての成長を超えてしまう時がくるといいます。小越さん自身も、そのジレンマがあったと話していました。まるで、才能の高さゆえに次々と技を会得していったものの、身体がその成長に追いつかず無我の境地を持て余す越前リョーマのようです。

 松田さんいわく、「テニミュは特殊」な舞台。 俳優の仕事というよりも、助走やロイター板のような存在。そのあとどうなるかは本人次第とのこと。俳優が未熟なうちから目を付けて成長を見守るのは、昔からの日本人文化です。400年続く歌舞伎も、昨年100周年を迎えた宝塚歌劇団も、最近流行りのアイドルも、みんな、そういったパトロン的な観客によって育てられています。

 もちろんテニミュにもそういった面があるのですが、先ほど書いたように、テニミュの場合は、役者の成長と同時に作中でのキャラクターの成長も起こります。二重の意味で成長を見守る演目になっているのです。それに加えて、原作でチームやキャラクターが絆を深めるのと同じように、役者たちの間にも絆が生まれるといいます。松田さんは、そういった「セミドキュメント」や「擬似体験」といった要素が面白みに繋がっていると話していました。

 

 司会の青井さんは、劇団四季の『ウエスト・サイド・ストーリー』では、作中で敵対するジェット団とシャーク団は舞台裏でもあいさつすらしない、楽屋の場所など扱いにも差があったと話し、テニミュでは舞台上とバックステージでのキャストの関係はどうなのかと尋ねます。小越さんは「学校によって色がある」「青学は中心だからぶれずにやろうという意識があったけれど、学校ごとに人気が違うし、新しい上手い子がきたら不安に思った」と答えていました。松田さんは「殴り合うチームもあったけど、それをドアの陰から『いいぞいいぞ』と見ていた」「例えばものすごくダンスの上手い子が入ってきたら、他の子に対して『ぬるいことやってんじゃねえよ』みたいな感じになって、うねりが発生する」「楽屋も舞台上と同じ」と話していました。

 

 また、小越さんは、先輩たちからのタスキはプレッシャーで、「前の代の誰かの越前リョーマと似て見えるのはイヤ」「そう見えないようにしたいけど、マンガという正解があるので仕方ない」と、テニミュならではの苦労を語ります。

 一般的な戯曲の脚本には絵がありませんが、「2.5次元」には、脚本の土台としてビジュアルが存在します。その中でも『テニスの王子様』は、原作のキャラクタービジュアルに「年齢的な違和感がある」「キャラクターが中学生らしくない」ので、舞台化しても受け入れられやすかったのでは、という話もされていました。

 小柄な越前リョーマの視点で描かれた先輩や強豪ライバルたちは、とても大きい。身体的にも精神的にも。だから、越前リョーマ役よりも10歳年上の役者が手塚国光を演じていたとしてもそんなに違和感がないのかもしれませんし、むしろその絶妙な違和感こそが原作に忠実なのかもしれません。

 

 

③日本文化と海外の反応

 テニミュをはじめ、セーラームーンNARUTOなどのアジア公演も見られる2.5次元舞台。海外には「日本のマンガやアニメの信者が多い、リスペクトが強い」と松田さんは語ります。海外の方は、好きとか萌えとかではなく、そのマンガやアニメを「信じている」と言います。

 この話題が出たとき、松田さんと小越さんが「勇輝も海外公演やったよね?」「それ前から言ってるんですけど、僕行ってないんですよ、海外」「そうだそうだ、怒られたんだ!僕だけ行ってない!って」と話していました。小越さんは海外公演をやりたかったそうです。

 海外では、国ごとに人気のあるマンガが違うといいます。松田さんが「中国でも2.5次元ミュージカルやってますよ!」と言われて見せられたのは『一休さん』のファミリーミュージカル。中国では教育アニメとして『一休さん』の人気が高く、舞台では坊主たちがかわいらしく歌をうたっていたそうです。

 来年上演予定の『花より男子』も、台湾をはじめアジアでは絶大な人気があり、おそらく満を持しての舞台化なのでしょうか。「こんなに舞台向けの作品がなぜ今まで舞台化されていなかったのか」と熱く語る篠原さんに、『花男』の脚本を担当する植木さんがたじろいでいました。

 その他、海外からは『ドラえもん』や『名探偵コナン』の舞台化をしないのかという声が多くあるそうです。『ドラえもん』を「2.5次元」舞台にと言われると、なるほどと感心する反面、でもなんか違うような気も……と首をかしげてしまいますが、松田さんは「日本には埋もれているコンテンツがたくさんある」「どうしても今流行っているものに目がいきがちですが」「イケメンミュージカルでなくてもいい」「物語・内容で勝負できるものを作っていく」と語っていました。

 

 

④キャラクターを「生かす」2.5次元

 「2.5次元」の起源は、宝塚の『ベルサイユのばら』と言えるでしょう。眉毛を剃ったり、原作に忠実なウィッグをキープしたりと、『ベルばら』舞台がビジュアルをマンガに似せるためにした努力はすごかったそうです。 そして大成功をおさめ、今も愛される作品となっています。また、1979年に『ベルばら』は実写映画になりました。ヴェルサイユ宮殿を使っての撮影だったそうです。本物のフランス人が演じるのですから、さぞ美しい、まさに本物のようなオスカル様が出ているはずですが、「何かが違った」と篠原さん。もちろん、宝塚と違うという意味ではなく、原作と違うという意味です。ビジュアルではなく、本人の持っているものが大切だと気付かされたと話していました。

 それと対照的なのが、2000年の舞台『きみはいい人、チャーリー・ブラウン』。スヌーピー役の市村正親さんは、はじめは本当に犬の格好で演じようとしましたが、途中で「犬という共通認識がお客さんとの間にあれば、スヌーピーがヒトの形で出てきてもいい」と、ヒトの姿でスヌーピーを演じたそうです。作品のテーマさえぶれなければ、必ずしもビジュアルが第一ではないと。青井さんが言うには「2.5次元から3次元への切り替え」をしたことになります。

 

 では、最近の「2.5次元」では、どちらを重視して2次元の舞台化を行なっているのでしょうか。

 松田さんは「作品のテーマにもよるが、ビジュアルの似ている似ていないが重要でないものもある」「似ていると感じさせることが重要」と語ります。例えば『弱虫ペダル』では、舞台ソデで酸素を吸うほどの運動量があるため、汗で流れてしまうメイクはほとんど意味をなさないそうです。「メイクよりもキャラクターや世界観を出せるかどうか」「熱量の再現」などの言葉が出ていました。

 「着ぐるみのように、この形でやればいいというものではなく、キャラクターは人間」

 「ごはんも食べるし、バスにも乗るし、パスモを落とすこともあるかもしれない人間」

 「描かれていないもの(人間らしさ)を想像する」

 「ただし、2.5次元舞台の中には、原作を表面的にしか追えていない着ぐるみショーのような作品もある」

 「演じるようになって2年くらい経つと、キャラクターでアドリブが言えるほどに、キャラクターを人間として獲得している」

 すべて、松田さんが熱く語っていたものです。

 キャラクターは人間。その言葉を、心の中で何度も何度も反芻しました。いつもいろいろ文句言ってるけれど、私の大好きな『テニスの王子様』を、この人が引っ張って舞台化してくれてよかったなあと思いました。『テニスの王子様』に登場するキャラクターたちは、単なる「2.5次元」のお面として活かされているのではなく、「2.5次元」でも生きているんだって思いました。

 

 小越さんは、公演前には青学みんなでキャラクターとして雑談していたと話してくれました。青井さんも、稽古中に一度台本を置いて、それぞれの役でアドリブができるかどうかやってみるといいます。テニミュの出演者たちは、このスタニスラフスキーシステムのひとつを、誰に教わるでもなく「防衛本能的にやっている」と松田さん。こういうことがしやすいのも、「2.5次元」ならではなのかもしれません。テニミュの場合、稽古場に『放課後の王子様』が置かれているくらいなので、もしもこのキャラクターがこういう状況になったらどうするかという様々な想像は必須で、その経験がTeam Liveにも活用されたのだろうと思います。

 マンガにはマンガの、アニメにはアニメの、ゲームにはゲームの、そして舞台には舞台の良さがあります。「2.5次元」舞台は、原作という正解に近付けていく使命を持ちながら、原作に描かれていない部分も補完しなければなりません。マンガ原作であればコマとコマの間を埋めていくのですが、小越さんは「リョーマは強気で、負けず嫌いで、クールだけど、実はこの裏では笑ってるんじゃないかと思って演じた」ことがあるそうです。

 おそらく、四天宝寺公演D2のベンチワークのことでしょうか。あの場面は1stシーズンの2人がクールに徹していたこともあり、感情表現豊かな小越リョーマに対して驚きの声が上がっていました。いつだったかのインタビューでもこのことを話していたので、よっぽどアンケートなどで意見があったんだろうと思います。でも、それが小越さんの考える越前リョーマの人間らしさです。彼は、越前リョーマを、強気とか負けず嫌いとかクールとかいった記号的な‘キャラ’でなく、ギャグがツボにはまって笑ったり、変な行動を取る人におびえたりする面も持っている多義的な存在と捉えているのです。

 3rdシーズンで越前リョーマを演じている古田さんも、同様のことを話していました。

リョーマって生意気って思われているけれど、よく考えればリョーマはすごく実力があるので、別に生意気に振る舞おうとしているわけじゃないのではないか、とか。(中略)たまたま生意気に映っちゃうというか。だからあえて生意気に見せるようにはしないというか…(*2)

 キャラクターという言葉の持つ意味のなかには、「小説・映画・演劇・漫画などの登場人物」(広辞苑)があります。「キャラクター」は「キャラ」と省略され使われることもありますが、「キャラ」という言葉には、「キャラクター」とは違った意味が含まれています。

 伊藤剛は、「キャラ」を「『人格・のようなもの』としての存在感を感じさせるもの」、「キャラクター」を「『キャラ』の存在感を基盤として、『人格』を持った『身体』の表象として読むことができ、テクストの背後にその『人生』や『生活を想像させるもの」と書いています。(*3)

 最近は「キャラクター」を「キャラ」の部分でしか見ていないと思うようなコンテンツも少なくありません。恋愛シミュレーションゲームやアプリの広告に、キャラクターの絵と声優の名前だけ、あるいは「○○キャラ」などの説明だけが載っているのを見ると、それが最も効果的なPRの仕方なんだろうと思わされるからこそ悲しくなります。記号的な部分ばかりを強調されたキャラクターが量産され、消費されていくのは、傍から見ていても切ないものです。お金を出す側がそれを良しとする姿勢になれば、作る側も甘えて、手抜きの「キャラ」ばかりのコンテンツを作ってしまうような気がしますし、マンガ業界が20年前の少女マンガのグッズで小銭稼ぎを始めた様子を見ると、今後のマンガ・アニメ・ゲーム業界はどんどんつまらないものになっていってしまうのではないかと心配です。

 そういう流れの中で、(多分)オタクではない若い男の子が、マンガの登場人物をひとりの人間として、背後に人生や生活を想像しながら演じてくれるって、すごく幸せなことだと思います。『テニスの王子様』は、許斐先生がキャラクターたちを息子として、娘として、「キャラ」ではなくひとりの人間として扱っているので安心です。舞台も、制作側が「キャラクターは人間」と断言してくれているので、これからも安心して観られます。本当によかった。

 

 講座に話を戻します。青井さんは、小越さんがバスツアーを行なうことについて触れ、そういうファンとの触れ合いの場ではどういうふうに自分を出すのかと訊きました。「自然体の自分の、ふだん舞台上では見せられない部分を見せたい」と小越さん。答えを聞いた青井さんは、「役をつくったり出したりするのは自分。自分にないものは出せないのだから、自分を磨くことが大事」と言っていました。

 許斐剛先生も、作中に登場するキャラクターについて、このように語っています。

根本的な性格はみんな私に似ていますね。私もすごく負けず嫌いだし、悪いことをするのは嫌。ゴミをポイ捨てするのとか許せないんですよ(笑)。それは『テニス』の全員に備わっている性格だと思いますね。(*4)

 自分にない部分は表現できない。それは漫画家にも役者にも共通のようです。

 

 松田さんは、テニミュのオーディションなどを通して、「ビジュアルも大切だけど、最終的にはそこではない」ことに気付いたといいます。松田さんは、オーディションのときにどうしても見た目先行で選んでしまいがちだったのに、上島先生ははじめから「キャラクターとしての軸を持っているかどうか」「キャラクターの素養があるか」を重視していたそうです。身長など、観客が違和感を覚えてしまう部分については、それがブレーキにならない範囲で選んでいるとのことです。

 オーディションの時点でも、外面より内面が重視されるようです。映画やドラマと比較したとき、舞台の強みは「観客の想像力」に任せられることだと言います。だからこそ、「2.5次元」舞台(テニミュ)は、観客に「似ていると感じさせる」だけでなく、「キャラクターがそこに生きていると感じさせる」ような世界をつくろうとしているのではないでしょうか。

 

 

 

⑤「2.5次元」らしい表現の特徴

 ミュージカルといえば、一般的に音楽込みでお芝居を楽しむもの。音にこだわってつくられているものです。しかし、「2.5次元」舞台の多くでは 、録音した音楽を使っています。「ミュージカルなのに生オーケストラの演奏じゃないなんて」と言われることも少なくないそうです。

 これに関して松田さんは、オーケストラを使わない理由を3つ挙げました。第一に、観客が若く、チケットの値段を上げられないため、コストの問題でオーケストラを入れることができない。第二に、スピーカーの質も上がっており、録音でも十分良い音が出せる。そして第三、生オーケストラである必要はない。「オーケストラによるすばらしい演奏を観客は望んでいるか」「ずれることのある生の音よりも、(テニミュであれば)本当に打っている感覚を味わえるほうが大事ではないか」「だったら、音に合わせて俳優が完璧に動けるように、パッケージ感のある録音で良い、むしろ録音‘が’良い」と強く主張します。

 観客として、もちろん音はきれいな方がうれしいですが、SEの響きや楽曲の演奏ではなくキャラクターの声が聴きたくて、キャラクターが動く様子を見たくて劇場へ行っているので、録音に疑問を持ったことがありませんでした。宝塚では穴みたいなところで指揮棒振ってる人がいる、程度しか知識のない私のような、演劇をまったく知らない層がメインターゲットの舞台であれば、やはり録音がふさわしいのだと思います。

 

 この日のために『テニスの王子様』全巻を呼んできたという篠原さん。キャラクターが強烈、台詞が印象的、「ここでこれをやるの!?」というようなファンサービスがあるなどの特徴から、シェイクスピアに似ていて、非常に舞台向きの作品だと講評していました。篠原さんは、『ワンピース』が歌舞伎になることについて触れ、「『少年ジャンプ』はかなりかぶいている」ので、ある意味必然だとも話していました。

 マンガのコマひとつひとつに描かれているのは、歌舞伎でいう見得や型。 動きを切り取ったものです。マンガには、開いたときのインパクトがあるので、そのパンチをどう表現するかが重要になっているといいます。

 テニミュにも、歌舞伎のような見得があります。試合中のモノローグが長い台詞になる時などに、その台詞を言うキャラクターのほか、周りも動きを完全に停止させたり、あるいは動きがスローになったりします。これは、ただ台詞を言うための時間稼ぎだけではなく、原作に描かれている見せ場を意識しての見得です。歌舞伎で演技が最高潮に達したときに切る見得と同じ効果を持っています。私はテニミュ以外の「2.5次元」舞台を見たことがないのですが、テニミュ以外にもそういった場面があるのでしょうか。

 あまり意識してこなかったのですが、「2次元」だったときの見せ場を「2.5次元」で表現するときに、音や動きの持つ意味はとても大きいのだと考えさせられました。これからは、映像効果なども加わり、より作品の世界観を近くに感じられる舞台が増えていくのでしょう。

 

 

⑥「2.5次元」のこれから

 マンガ・アニメ・ゲームのファンは、一般的にオタクと呼ばれています。これらの舞台化も、「ざっくり言ってしまえば、そういう‘オタク’の人たちがターゲット」だったと話す松田さん。しかし、以前に比べてオタクはマイノリティではなくなりました。それどころか、アニメやマンガ、ゲームを好きで当たり前ともいえる社会になりつつあります。もちろん、‘好き’の度合いには相当な幅があるのですが。そういうなかで、「2.5次元」舞台は、外国人の獲得を目指していくといいます。

 松田さんが言うところには「アキバに来る外国人観光客を全員アイアシアターに引っ張ってきたい」、つまりインバウンドに一役買いたいと。ブロードウェイに行けばすばらしいミュージカルが見られるように、アイアに来ればいつでも本物の「2.5次元」舞台が見られるようにしたいと。そのために字幕メガネをつくったり、これまで海外からは買えなかった日本の演劇チケットを買えるように(日本のチケットを買うために使えるのは日本のクレジットカードだけだった。海外のファンは、日本の知り合いに頼むか、オークションを使うかなどしなければチケットを買うことができなかった。)システムを整えたりしていると。

 さらに、「2.5次元」舞台の輸出も考えているとのこと。日本人役者による海外公演だけでなく、日本でうまれた作品を現地の人が現地でやるのもあり得ると話していました。

 その他、集客について、これまで演劇を見たことのない層が劇場へ足を運ぶきっかけになってほしいと話していました。また、演劇に凝り固まった人にも、新しい演劇ジャンルとして楽しんでほしいとのことでした。

 でも社長、ケチってアイア使ってないで秋葉原周辺にちゃんとした劇場建てちゃえばいいのに。

 

 

⑦質問コーナー

Q.舞台化を受け入れられない原作ファンもいると思いますが……

A.もちろん、100%喜ばれることはない。インターネットを見ると、だいたい「ネルケ氏ね」って書かれてる。でも、見て納得してもらうしかない。前は沈静化しようとしてたけど、今は、「ちょっと見てやろうじゃないか」というような見方でもいいので、とりあえず劇場に来てくれればいい。内容でファンを黙らせます。

 

Q.ネルケプランニングはどのようにして「2.5」にたどり着いたのか?

A.もともと演劇を制作していて、ミュージカルも作るようになって、たまたま、舞台化にふさわしいマンガに出会った。マンガを舞台化させようと思っていたのではなく、舞台にふさわしい題材としてマンガがあった。ミュージカルは『アニー』のイメージがあったので、はじめは女の子向けの『赤ずきんチャチャ』や『りりかSOS』を上演していた。それからいくつかジャンプ作品を上演して、『テニス』に至った。マンガが原作だと、お客さんはキャラクターに会いに来る。韓流ブームのときに、韓流ドラマなどを舞台化してみたがうまくいかなかった。韓流ファンは、ストーリーや役が見たいのではなく、俳優が見たいだけだから、舞台にお客さんは流れてこないとわかった。

 

(*1)一般社団法人日本2.5次元ミュージカル協会チラシより

(*2)3rdシーズン開幕!ミュージカル『テニスの王子様』古田一紀、神里優希、青木空夢、健人インタビュー | エンタステージ

(*3)伊藤剛テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版 2005年

(*4)ジャンプSQ.若手作家が聴く「マンガの極意!」第3回ゲスト許斐剛先生[ジャンプSQ.Web特集]

「2.5」の共有――TEAM Live SEIGAKUが見せた世界

 「ミュージカル『テニスの王子様』TEAM Live SEIGAKU」に参加してきました。

 「観た」よりも「参加した」という表現のほうが正しいイベントだったと思います。

テニミュ」が青春体感ミュージカルを自称するようになって久しいですが、TEAM Liveはまさに青春‘体感’イベント。これまでの「テニミュ」にない試みは、とても興味深いものでした。

 

 

 TEAM Live公演初日の数日前、公式ホームページ上で下記のような告知がありました。 

今回のTEAM Live SEIGAKUのテーマは、「都大会地区予選優勝 報告・親睦会」。このシチュエーションに、皆様に積極的に参加していただき、楽しんで頂ければと思います。

まず、今回の会場は「都大会地区予選優勝 報告・親睦会」が開催される“学校の体育館”の設定です。

ご来場の皆様は青春学園の生徒、もしくは青春学園テニス部のOB・OG、さらには家族など好きな設定を選んで、この「報告会・親睦会」にご参加していただくことになります。

そして、青春学園男子テニス部を普段から応援をしてくださっている皆様に、直接、本人たちから今回の地区予選の優勝を報告し、感謝の気持ちを伝え、さらに親睦を深める1日となります。

 

このライブイベントを盛り上げるために、皆様にご協力をお願いいたします。

◆お名前シールにご協力ください!

ご入場の際にお名前を記入できるシールを配布致します。是非、ご自身のお名前、お好きな設定(生徒、OB・OG、家族など)をご記入いただき見える所に貼ってください。

◆会場内でアンケートを実施。ライブイベントで発表!

ご入場の際にアンケート用紙を配布いたします。日替わりのアンケートで、その内容がライブイベントに反映されますので、是非ご協力をお願いします。 また、開演の15分前までにスタッフが回収させていただきますのでお早目のご記入をお願いいたします。

※会場でもペンはご用意いたしますが、ご来場の際にご持参いただけますと、記入がスムーズに出来るかと思います。ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

◆「青春学園中等部 校歌」を皆で一緒に歌いましょう!

ライブイベントで「青春学園中等部 校歌」を歌います。ご存知の方は是非、一緒に歌っていただければ幸いです。

※ミュージカルのナンバーではありません。ご注意ください。

テニミュニュース | ミュージカル『テニスの王子様』TEAM Live SEIGAKU 続報!より)

 

 この発表があったとき、とても驚きました。まさか「テニミュ」公式側から設定という言葉を提示されるなんて。しかも、舞台上での設定だけではなく、観客席を含めた会場全体、それどころか観客の存在についての設定だなんて。

 本公演はもちろん、ドリライや、過去に二度開催された運動会でもそんな言葉が公式から出されたことはありませんでした。

 ただ、決して少なくない人数のファンは、どこかの学校やキャラクターに寄り添った目線で本公演を観ていたり、保護者になったつもりで運動会を楽しんだりしていたと思います。ですので、これまでも、それぞれの視点で公演に参加しているような気持ちを味わっているファンは多かったのではないでしょうか。練習風景であれば同じ学校の生徒や教師、公式試合であれば応援に来た保護者やその他のギャラリーなどとして、自分で自分に勝手に設定をつけることで「テニミュ」の世界を構成する一員になれるのです。(もちろん、感情移入などせずに、舞台作品として「テニミュ」を観ている方もいるとは思いますが、そういった存在は一旦切り離します。)

 

 このように、これまで「テニミュ」は観客に様々な想像の余地を与えてきました。しかし、観客はあくまで観客。“青春体感”と表現するには、やや距離があったように思えます。その謳い文句を実現させようとしてきたのが、今回のTEAM Liveでした。

 前述の設定提案から始まり、会場外には幟や看板を設置、アンケートには<【続柄】ご家族/OB・OG/生徒( 年 組   部)>という記名欄が用意され、学ランを着たキャストが件の名札を手渡しし、舞台の緞帳には青春学園の校章がつけられ、開演前アナウンスはいかにも中学校の集会といった雰囲気、開演すれば学校長挨拶、校歌斉唱……と、中学生の手作り感を押し出してきます。アイアシアターは、まさに中学校の体育館になっていました。

 青学レギュラー陣のキャストが舞台上に揃ってからは、まばゆい照明とペンライトの光のなかで歌いあり踊りあり小芝居あり、いつもの「テニミュ」ワールドへ戻ります。そうすると途端に「都大会地区予選優勝報告・親睦会」という設定が薄れてしまいます。

 やるからには完璧な世界を作ってほしいものですが、この絶妙なやりきれてない感こそが2.5次元テニスの王子様の醍醐味というか、現実ではないのに現実のような気がする、現実になりそうで現実にならない、私たちを現実に繋ぎとめる命綱のようなものになっていると思います。

 

 こういった舞台と観客の関係については、知識社会学の観点から見ると面白いです。私たちが生きる自明の日常生活を<至上の現実>、日常から少し離れ夢想するもの(寝ているときに見る夢や、芸術家が持つ独自の世界など)を<もう一つの世界>としたうえで、

劇場(中略)では二つの世界の間の移行は、緞帳の上げ下げによって特長づけられる。幕が上がると観客は<もう一つの世界へと運ばれて>いく。この世界はそれ自身の意味と秩序とをもっており、(中略)そして幕が下がると、観客は<現実へ舞い戻る>。つまり彼らは日常生活の至上の現実へ引き戻されるのであり、この現実と比べると、ほんの数秒前までの演技がいかに生ま生ましいものであったにせよ、舞台で演じられた現実はいまや薄っぺらで束の間のものにすぎないように思えてくるのである。

と説明している本があります。(*1)

 ここでの「至上の現実」は「客観的現実」「正気(の世界)」とも表現され、一方「もう一つの世界」は、それらに対応するように「主観的現実」「狂気(の世界)」などとも書かれています。

 

 思えば、TEAM Liveの会場では緞帳の上げ下げは行われていませんでした。青春学園の校章がつけられた緞帳は、開演前も終演後も、もちろん上演中も、ずっと舞台の上方に留まったままでした。

 「テニミュ」の本公演では緞帳の上げ下げが行われますが、ドリライや運動会の舞台には幕が存在しません。

 原作を再現する本公演は、私たち観客にとって現実と区別されるべき「『テニスの王子様』の世界」であり、原作を逸脱した場所にあるドリライや運動会――ビーチバレーや焼肉など原作に沿った演出もありますが、根本は原作の再現ではない――は、時にはキャラクターと全く関係のないキャスト本人の色の強い演出なども使われ、「『テニスの王子様』の世界」よりもやや「現実」に近い存在です。

 本公演は「2」次元に近く、ドリライや運動会は「3」次元に近い次元にあると思います。

 

 では、TEAM Liveは、そのどちらに近い存在だったのでしょうか。あの会場は不思議な空間でした。少なくとも、TEAM Liveは私がこれまで体験してきた「2.5」とは違う次元でした。そこは、演者が「2.25」にいて、私たちが「2.75」くらいまで行けたような空間でした。

 2.5次元ミュージカルといえば、漫画のキャラクターが現実に飛び出してきて舞台上で彼らの世界を見せてくれる、という認識が一般的だと思います。実写映画などと比べると、キャラクターやその世界と観客との距離はだいぶ近いのですが、基本的には、現実の私たちが、仮想世界を眺めるだけでした。

 しかし、TEAM Liveでは、舞台上の演者だけでなく、名札によって観客にも役が与えられ『テニスの王子様』の世界の人間(あるいは動物や無機物)としてキャラクター化されました。今まで夢想はしていても、個人やファン同士でつくりあげた<現実世界に対する下位世界>でしかなかったものが、公で認められたのです。

 

 過度の感情移入をしながらそれを見ている私にとって、「テニミュ」と現実世界との関係は、下記のようになっています。

①本公演

<至上の現実>の下に発生した、観客個人にとっての<もうひとつの世界>。正統派2.5次元。

ドリライ

<至上の現実>の下に発生するものだが、原作とはほぼ関係ない歌とダンスで構成されるため、2.5次元よりも3次元に近い。たとえばオープニングムービーなどはキャラクター名ではなくキャストの名前で呼ばれる。‘キャラクター’に演者の色が濃く出がち。

③TEAM Live

①や②よりも、観客の意識の社会化が進んでいる空間。<至上の現実>において<もうひとつの世界>の存在が認められる。制作側の作った<もうひとつの世界>へのファンの介入が認識される。本公演とは違ったかたちで『テニスの王子様』の世界を掘り下げている。ファンブックを舞台化したイメージ。2.5次元よりも2次元寄り。

 

 要するに、TEAM Liveは「2.5」次元よりも「2」次元に近付いたイベントなのです。

 それと同時に、私たちが「2」次元へ近づくこと、「2.5」次元へ入ることを許されたような気もします。<『テニスの王子様』はただの漫画で、「テニミュ」はそれを舞台化したもの、という現実世界>から、<限りなく『テニスの王子様』に近い世界>へ連れて行ってもらうような感覚でした。

 

 今回の試みは、「テニミュ」や「ミュージカル『テニスの王子様』」のファンではなく、「『テニスの王子様』をミュージカル化したもの」のファン向けのイベントだったように感じました。賛否両論分かれるのは仕方のないことだと思います。

 ただ、原作と原作キャラクターへ憧れを抱く私にとっては、とっても楽しいイベントでした。だって、「設定」と「名前」を決めて、それを目の前のキャラクター/キャストに認めてもらえるなんて、こんなイベント、成人女性の健全な社会生活を脅かす危険性がありすぎます。

 私は思春期に『テニスの王子様』と出会いました。中学生のころ純粋に憧れていた、そして今でも焦がれてやまない、実在しないキラキラの男の子たち。それを、触れられるぎりぎりの距離まで近づけてくれたのが「テニミュ」でした。「テニミュ」が始まったのは、原作イベントで失神者まで出ていた時期。キャラクター・キャスト・自分の距離を掴めず倒錯したファンの気持ちは、私も痛いほどわかります。TEAM Liveでも、青春学園校歌に合わせて女性向け恋愛シミュレーションゲームのような映像が繰り広げられ会場が黄色い悲鳴に包まれましたが、ついに入ってはいけない領域にまで踏み込んできたな、とぞっとしました。

 「名札?非レギュラーの青学3年生部員の母って書いていこうかな、まあキャストはそんな名前わかんないだろうけど(笑)」などと舐めていたのに、たった1時間の公演で、名札に「3年11組 ○○(本名)」と書いて、お見送りをしてくれた同じクラスの乾くんに「ああ、○○さん」と呼ばれ足を震えさせながらアイアシアターを這うように出てくるなんて、まさにテニプリ夢豚ここにありといった感じです。最高。テニスの王子様は最高。

 

 モノが売れない時代、体験型の企画が多くのお金を生み出すと言われるようになって久しいですが、「2.5」次元をはじめとした芸能コンテンツ、オタク的コンテンツについても同じです。体験の共有、空間の共有はとても重要な商売です。

 それに上乗せするように、たとえば跡部のファンだったら「国民」とか「メス猫」とかの自称他称があるように、会場で空間を共有する人たちに特別な呼び方が与えられると、とても満たされた気持ちになると思うんです。いつもは「テニモン」を自称し、会場では「観客のみんな」などと呼ばれていますが、TEAM Liveならば「青春学園の生徒や保護者」になれます。さらに畳み掛けるように「青春学園3年11組の○○」という個人として、遠い世界の人たちに存在を認めてもらえる感覚が味わえる。これはもう、体験や空間の共有とかではなく、次元を超越した新しい世界にすら思えてきます。色々な危険性を秘めているので本当に怖いイベントですが、私は、私たちファンをあっち側へ連れて行ってくれたTEAM Liveの今後に期待しています。

 

(*1)Peter L.Berger and Thomas Luckmann,The Social Construction of Reality―A Treatise in the Sociology of Knowledge,New York,1966(山口節郎訳『現実の社会的構成 知識社会学論考』新曜社 2003)