怪文書

オタクに幸あれ

オタクってなんなん

 オタクは、なにをきっかけに自分をオタクと認識し、なにをもって自分がオタクでなくなったと思うのだろうか。  

 

ドリフェス終わったらどうするの?」

「オタクやめるの?」

 昨年、ふさぎこんでいた時にかけられた言葉たちだ。そう言った周囲の人間から悪意ばかりを感じたわけではないが、なかなか厳しい問いかけだなと思った。

 私も、上記の発言をした家族や友人たちも、オタクまたはオタク文化に理解がある人間だ。だが、こんなふうにすべての展開に区切りを告げられるのは初めてのことで(テニプリの場合、序章の連載が終わったあともOVAの発売やラジオ放送、ミュージカルの上演等は続き、そうこうしているうちに新章が始まった)、コンスタントな供給がなくなる、イコール、オタクとしての活動がなくなること、ひいては自分がオタクでなくなるように感じていた。

 その日が来たとき、人生の半分――とくにこの一年間はすさまじい勢いで――オタクとして全力疾走してきた生活が終わり、私はオタクではないなにか別の存在になるのだろうか。それ以前に、ここから飛んじゃおして死ぬ可能性だってある。 当日を迎えるまで、10月21日*1*2より先の自分が何を思っているか、どうなっているかなんて、全く想像できなかった。

 しかし、明日も生きろと言われ武道館を出て、一日ぼんやりと街をさまよって、家に帰ってきて、夜中に「またね」と言われて、泣き疲れ眠りについて、目覚めた未明に「#イケるっしょ」のムーブメントを目撃して、気付いた。「区切り」の日を越えても、私はめちゃくちゃオタクのままだということに。4か月経ったいまでもドリフェス!に思考を支配され、私はオタクであり続けている。人間としても、オタクとしても、死ななかった。死ねなかった。元気に生きていた。

 ただ、いまはコースを走り終えて、流してトラックをゆっくり回っているような感覚で、いろいろな感情を共有する仲間と、ちょっとしんどいけど幸せな毎日を送っている。ちょっとしんどいけど、オタクとして生きていることはやっぱり楽しい(私たちはもうオタクではなくドリフェス!そのものになったけれど)。

 

 最近、「オタクとして死んでる」「オタクをやめたい」などと話す友人が増えた。それらは、結婚や出産で時間が取れなくなったり、好きな作品に疑念を抱いたからだったり、他のオタクとの関係に問題が生じたり、単純に“落ち着いてしまった”からだったり、さまざまな理由によるものだ。ただ、少なくとも私の周りでは「公式が死んだから私も(オタクとして)死ぬわ」と言う人はなかった。むしろ逆のようにも思える。オタクの元気さは、公式の脈拍に必ずしも比例していない。

 

「オタク」の定義に、これといったものは存在しないという。

 個人的には、日常生活を送るうえで思考に著しく影響を与えるものがあるとき、人はそれのオタクになっていると考えている。漫画でも、アニメでも、ゲームでも、アイドルでも、鉄道でも、昆虫でも、便座でも、いちご大福でも、魂を所属させるジャンルは人それぞれだ。この世界のありとあらゆるものが、人をオタクたらしめる存在になりうる。

 なにかに強烈に魅せられ正気を失ったと気付いたとき人はオタクになり、夢から醒めたと感じたときオタクではなくなるのだと思う。たぶん、「夢中」という語は、「オタク」にすごく近い。

 富士山の頂上で「登山楽しいから山ガールになろうかな」と言った私に、友人は「ぬいぐるみ連れていきたいから登るんでしょ? それは登山じゃなくてドリフェスのオタクだよ」と返してきた。そういうことなんだろう。自分が何者であるかは、自分の感覚が決めるものだ。私の夢は、まだ終わっていない。