怪文書

オタクに幸あれ

それでも私はテニモンじゃない

 広義の「テニモン」の自覚を失って久しい。
 私はDREAM LIVE 7thのときに死にかけたことがきっかけで、いまだにテニミュに対して抜け殻状態だからだ。
 とはいえ、セカンドシーズンもサードシーズンも毎公演劇場へ行っているし、テニミュバイルには加入し続けていたので、狭義の「テニモン」ではある。
 それでも私は「テニモン」じゃない。

 

「テニモン」。その響きの妙さや、テニミュに貪欲な獣を連想させる語感が受け、長くテニミュファンの間で使われている。と思う。

「テニモン」という言葉を生み出したのは、ファーストシーズンで跡部景吾を演じていた久保田悠来さんだ。2008年か2009年頃だっただろうか、詳細はもう覚えていないが、テニミュバイルのメールマガジンに「テニミュバイル会員のみなさま、略してテニモンのみなさま」から始まる彼のメッセージが記載されていた。

 つまり、狭義の「テニモン」とは、テニミュバイル会員のことを指す。

 

 しかし、「テニモン」には広義の解釈も見られる。テニミュバイルの会員以外を「テニモン」呼ぶことが多々あるのだ。

 私にとって広義の「テニモン」の定義は、第1にテニミュが好きなこと。第2に、テニミュキャストが好きで、ジャージを着ていないキャストも愛していること。それと、公演の千秋楽にこだわってチケットを取る人のこと。この3つだ。テニモンの定義に、原作『テニスの王子様』が好きなことは含めていない。

「テニモン」ついては、すどうさんがご自身の体験も含めて書いているので、こちらも読んでいただきたい。

 

「テニモン」という表現が誕生したころ、私は間違いなく「テニモン」だった。出演者のブログもまめにチェックし、千秋楽の当日券にも並んだ。キャラクターを観に行くのではなく、キャストが演じるキャラクターを観るのでもなく、「キャラクターを演じるキャストくん」を観に行っていた時期もあった。

 あまりにも熱心な「テニモン」だったので、ドリライ7thの最終日に家のベランダから落ちた。(もちろん自殺ではなく、いろいろあってベランダをよじのぼったら落ちただけ。)

 私はそこで一度「あ、死んだ」と思った。テニミュのせいで死ぬのだと。落ちていきながら、自分はテニスの王子様の、テニミュの、この公演のために命を懸けて、そして死んだと思った。結果として生きてはいたけれど、私は一度、テニミュのために死んだのだ。

 こうしてファーストシーズンに命を持っていかれ、脱け殻となった私は、2010年からこれまでの6年間、ぼんやりと、己の魂を供養するための義務のような思いで、テニミュを観てきた。

 

 しかし最近、同じようなファーストシーズンの亡霊仲間たちがこぞってサードシーズンの公演に通いつめている。ファーストシーズン時代のテニモンはだいたい原作主義者で、キャストのことを降霊術師かなにかだと思っている人ばかりだ。その「旧テニモン」が、最新のキャストに入れ込み、劇場へ通い詰めている。これはいったいどういう現象だろう。

 ここで思い出すのは、ドリライ2016だ。ここで気付かされた「キャラクター重視」の部分が、旧テニモンに響いたのではないだろうか。

 ファーストシーズンがキャラクター重視だったかと問われたら、決して頷けない。ファーストシーズンはなにもかもが手探りで、私たち観客も、キャラクター(の格好をした人)が出てきたという現実だけで胸がいっぱいになっていた節があり、むしろ、セカンドシーズンやサードシーズンのほうが「キャラクター」を意識したつくりになっていると思う。原作が進み、ファンブックなどでの情報が充実してきた影響もあるだろう。日替わりシーンではキャラクターの内面やバックボーンなどの描写が多くなったし、キャストもキャラクターのデータを叩きこんで出てくるようになった。

 では、私たちはなぜファーストシーズンにこだわるのか。

 私にとってその理由はたったひとつ、「初めて自分の目の前に出てきたあのキャラクターたち」だから。ようは刷り込みだ。好きで好きで、でも一生出会えることがないと思っていたキャラクター(を演じてくれる男の人)が目の前にきて、運がよければ手に触れたり、駆け抜けていったあとの残り香を嗅いだりできるのだ。五感のうち味覚以外は宍戸亮を感じられるようになってしまった。ヤバイ。シャブすぎる。もう、初恋の人を訊かれたら、幼稚園で同じクラスだった男子ではなくふつうに鎌苅さんの名前を挙げてしまうレベルでシャブい。テニミュはそういう空間だった。キャラクターとキャストを混同しても意味がないと理性ではわかっているはずが、だんだんわけがわからなくなって、キャストを好きになり、彼の集大成を見るために千秋楽のチケットも欲しくなる。そして「テニモン」になる。

 それが、セカンドシーズンで物語は2周目になり、キャラクター(キャスト)が「いる」のにも慣れ、感動も少し薄れてきたような気がする。もちろん、セカンドシーズンで初めて内村や森、滝が登場したことは嬉しかったし、ファーストシーズン以上にキャラクターを理解しようと努力しているキャストも多かったと思う。しかし、「マンガから出てきたんだ!やっと会えた!」という感動は、ファーストシーズンに比べると落ち着いてしまった。(※個人の意見です。私が年を取ったせいかもしれない。)

 そしてサードシーズン。テニミュは、「原作から出てきた」ことを強く意識させるつくりに変わった。演出の上島さんは、こう語っている。

(3rdシーズンの聖ルドルフ公演冒頭で原作の絵を使用したことについて)「ほら、出てきたみたいでしょ、これが原点だよ」って、3rdシーズンでもう1回、ここが原点だと僕もお客さんもみんなで再認識する意味で使いました。

美術手帖 2016年7月号

美術手帖 2016年7月号

 

 サードシーズンのテニミュは、キャラクターが「いる」空間ではなく、「出てきた」空間。それがどことなくファーストシーズンを想起させる。だから、ファーストシーズンを追いかけていた旧テニモンたちが「テニモン」に戻っているのかもしれない。

 

 それでも私はテニモンじゃない。

 2016年の夏を終えたとき、私はこの台詞が言えるのだろうか。新しい宍戸亮キャストの画像をかたっぱしから保存しながら、ぼんやりと考えている。