怪文書

オタクに幸あれ

威を借られる虎

 劇団の女優をしていた友人がいる。彼女は、私がテニミュのファンだと話した数年前、苦笑いで「ああ、テニス」と言った。「舞台関係の人は、だいたい『ああはいはい、テニスね』って感じでいるよ」とも。

 彼女はその後劇団を辞めてしまったので、いま業界でテニミュがどう扱われているのかはわからない。だが、一市民として感じるのは、テニミュは色眼鏡だということだ。

 

 そんなことを思い出したきっかけが、このツイートだった。

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 該当ツイートはすでに削除されており、代わりに下記のコメントが投稿されている。

 

 この投稿から「テニスはいらない」だけを切り取ると、立派なニュースの見出しができあがる。それくらいインパクトのある表現だ。

 「彼」とは、小越さんのことをさしている。「彼の履歴書にテニスはいらない」という文は、小越さんがすでに『テニミュ』を離れたところで活躍し、評価されている証拠だ。続く「経歴とか投げ捨てて純粋な目で彼を見たい」との言葉は、プラスにもマイナスにも捉えらえるが、このツイートをした方が『テニミュ』という色眼鏡をもっているからこそ生まれたのだろう。

 

  世の中にはさまざまな色眼鏡がある。芸能人の名前の前につく「元タカラジェンヌ」「仮面ライダー出身俳優」「朝ドラ主演女優」「東大出身」などは、視聴者にある種の先入観を植え付けはするが、その人物の経歴に華を添え、箔をつける役割を担っているだろう。

 そういった色眼鏡のひとつに「テニミュ出身」がある。

 最近は、「あの斎藤工さんや城田優さんも出演していた『テニミュ』」などと、出身俳優の名前が『テニミュ』の枕詞になることも多い。この場合、彼ら「“テニミュ出身”者の名前」が、『テニミュ』に箔を付けている。

 では、「テニミュ出身」の肩書きは、芸能人としてのテニミュ出身者の価値を高めているのだろうか。

 

 ここで、さきほどの小越さんに関する発言を思い出したい。「経歴とか投げ捨てて純粋な目で彼を見たい」とは、『テニミュ』に出ていたことが、彼の演技を観る際になんらかの影響を与えており、それを抜きにして現在の彼を評価したい、という意味だろう。実際に、「彼を称する時に過去の偉業を持ち出さなくても今の彼は誰もが目を見張るほど素晴らしい」との投稿が追加されている。

テニミュ出身」という肩書きは下駄になりうるかもしれないが、4年間で500公演以上を主演したという「偉業」は、小越さん自信がテニミュでつけた箔だ。つまり、小越さんは、『テニミュ』を通して自らの存在に箔をつけたのだ。単なる「テニミュ出身」とは異なる肩書を、彼は持っている。彼はプリンス・オブ・テニミュと呼ばれるほど『テニミュ』に貢献した人間だが、今後はその「偉業」を超える活躍を期待されているのだろう。

 

 では、あらためて「テニミュ出身」の肩書きは、芸能人としてのテニミュ出身者の価値を高めているか考えてみたい。テニミュはメチャメチャアツくて、キャストさんもスタッフさんもマジでがんばってて、テニスの王子様は本当に最高で、ここらへんの界隈では超名門のアカデミーみたいな感じの存在だってことを、私たちファンは誇りにしている。しかし実際には、私たちが思っているほど、「テニミュ出身」はご立派な肩書きではないのかもしれない。だからこそ、出演者だけでなく、その中身も見て、評価してほしいと思う。

 

 2か月前まで越前リョーマを演じていた古田さんは、このように語っている。*1

憧れだったテニミュ。そりゃこれくらいの年代で役者やってて男の子だったら出たいよ。

 オタク冥利に尽きるお言葉。

 テニミュが「そりゃこれくらいの年代で役者やってたら出たい」「憧れ」の存在であり続けると同時に、「テニミュ出身」の肩書きが、彼ら出演者にとっての威となるよう、ひとりのファンとして願っている。

 テニミュよ、威を借られる虎たれ。