怪文書

オタクに幸あれ

2016年テニプリ新語・流行語大賞

  2016年テニプリ新語・流行語大賞は、2015年12月から2016年11月までの間に、テニプリ公式(原作者・漫画・アニメ・ミュージカル・グッズ等)から発せられたことばのなかで、多くの人の心を動かし、一年間を象徴するにふさわしい語を選ぶものです。

 今年も数ある名言のなかから、「ハッピーメディアクリエイター」「彼らは本当にいるんです」「悲しいね…キミが近すぎて」「もぬもぬ」「やれ! Do it!!」「ギリッ…シャ」「パラダイス」「シャカリキ・ファイト・ブンブン」「ブリザード」「跡部様」の10語を選出し、ひとつに投票していただきました。

 

 投票の結果、2016年の年間大賞を獲ったのは、こちらの語です。

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 日吉若のキャラクターソング「やれ!Do it!!」が568票を獲得し、1位となりました。その他の得票数は下図のとおりです。

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 他を大きく離しているのは、1位の「やれ! Do it!!」以外に、テニミュから「シャカリキファイトブンブン」、そして許斐先生の職業「ハッピーメディアクリエイター」です。「ハッピーメディアクリエイター」の初出は2014年3月と記憶していますが、2016年は楽曲「ハッピーメディアクリエイター時々漫画家」を披露したほか、その言葉を強く意識させるイベント等が数回にわたり開催されたためノミネートに至りました。

 なお、この10語以外にノミネート候補となった語は「どーやら今宵は満月になりそうだ」「3年A組」「制作総指揮許斐剛」「常勝の海より龍虎立つ」「ハッピーメディアサポーター」でした。

 

用語の解説

やれ!ドゥーイット!!【やれ! Do it!!】

日吉若のアルバム『下剋上*1に収録されている楽曲のひとつ。10月15日・16日に開催された「テニプリフェスタ2016」でのパフォーマンスが話題となり、19日にはiTunesのアニメ部門ダウンロード数で1位を獲得した*2

 

シャカリキ・ファイト・ブンブン【シャカリキ・ファイト・ブンブン】

「ミュージカル『テニスの王子様』」3rdシーズン青学VS山吹」公演より使用されたアンコール曲のタイトル。また、その曲中に登場する一節のこと。

 

ハッピーメディアクリエイター【ハッピーメディアクリエイター】

許斐剛先生の職業のうちのひとつ。

②「ハイパーメディアクリエイター高城剛氏は、現在の肩書きがつく以前に「ハッピーメディア・クリエイター」を名乗っていたとされている。*3

 

 かれらはほんとうにいるんです【彼らは本当にいるんです】

1月に開催された「許斐 剛☆サプライズLIVE ~一人テニプリフェスタ~」において、3DCGのキャラクターがリアルタイムのモーションキャプチャーで動いていたことから、許斐剛先生が発した言葉。この発言はDVD・BDにも収録されている。*4

 

かなしいね…キミがちかすぎて【悲しいね…キミが近すぎて】

許斐剛先生のサードシングル。*51月のライブで初披露。その際、「マンガの中のキャラクターが読者のことをほんのり好きになる」歌詞と紹介された。

 

あとべさま【跡部様】

跡部景吾のこと。毎年流行語にノミネートされている。

 

ギリッ…シャ【ギリッ…シャ】

『新テニスの王子様』Golden age180話*6において、ギリシャ代表選手タラッタ・ヘラクレスが放ったサーブの構えおよびインパクト時の効果音。なお、このサーブで放たれたボールがバウンドする時の効果音は「ギリシャ」である。

 

リザード【ブリザード

①「ミュージカル『テニスの王子様』3rdシーズン青学VS氷帝」公演中に歌われる楽曲のワンフレーズ。

使用例:「昨日はマチソワブリザード浴びた」「もう1か月も氷帝見てないからさすがにブリザード浴びたい」

②大吹雪・暴風雪。*7

 

もぬもぬ【もぬもぬ】

「ハッピーメディアクリエイター時々漫画家」*8歌詞中の一節。既存の日本語にはない語で、副詞のはたらきをしていると見られる。詳細は「もぬもぬ」についての記事を確認のこと。

 

 

以上です。

アンケートの拡散および回答にご協力くださったみなさま、ありがとうございました。

今年は許斐先生関連の言葉が際立った一年のように感じられます。また、年間大賞の日吉若をはじめ、越知月光や跡部景吾など、氷帝学園の活躍も目立ちました。来年はいったいどんな名言がでてくるのか楽しみですね。

それでは、テニプリフェスタ2016において、昨年の年間大賞「財前ワンダホー」が発声されたことを祝い、2016年テニプリ新語・流行語大賞の発表記事を締めさせていただきます。来年もテニプリにとってすばらしい一年になりますように。

 

※当企画は個人の趣味でおこなっているものであり、公式とは一切関係ありません。

★選考協力:井田さん・うみさん・しーかさん・しぶやさん・ナツさん

*1:

新テニスの王子様「下剋上」

新テニスの王子様「下剋上」

 

*2:https://twitter.com/MasamiPnck/status/788409650513186816

*3:

ウメカニズム―楳図かずお大解剖

ウメカニズム―楳図かずお大解剖

 

 

*4: 

 

*5:

悲しいね・・・キミが近すぎて(DVD付)

悲しいね・・・キミが近すぎて(DVD付)

 

*6: 

新テニスの王子様 18 (ジャンプコミックス)

新テニスの王子様 18 (ジャンプコミックス)

 

*7:blizzardの意味 - 英和辞典 Weblio辞書

*8:

 

威を借られる虎

 劇団の女優をしていた友人がいる。彼女は、私がテニミュのファンだと話した数年前、苦笑いで「ああ、テニス」と言った。「舞台関係の人は、だいたい『ああはいはい、テニスね』って感じでいるよ」とも。

 彼女はその後劇団を辞めてしまったので、いま業界でテニミュがどう扱われているのかはわからない。だが、一市民として感じるのは、テニミュは色眼鏡だということだ。

 

 そんなことを思い出したきっかけが、このツイートだった。

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 該当ツイートはすでに削除されており、代わりに下記のコメントが投稿されている。

 

 この投稿から「テニスはいらない」だけを切り取ると、立派なニュースの見出しができあがる。それくらいインパクトのある表現だ。

 「彼」とは、小越さんのことをさしている。「彼の履歴書にテニスはいらない」という文は、小越さんがすでに『テニミュ』を離れたところで活躍し、評価されている証拠だ。続く「経歴とか投げ捨てて純粋な目で彼を見たい」との言葉は、プラスにもマイナスにも捉えらえるが、このツイートをした方が『テニミュ』という色眼鏡をもっているからこそ生まれたのだろう。

 

  世の中にはさまざまな色眼鏡がある。芸能人の名前の前につく「元タカラジェンヌ」「仮面ライダー出身俳優」「朝ドラ主演女優」「東大出身」などは、視聴者にある種の先入観を植え付けはするが、その人物の経歴に華を添え、箔をつける役割を担っているだろう。

 そういった色眼鏡のひとつに「テニミュ出身」がある。

 最近は、「あの斎藤工さんや城田優さんも出演していた『テニミュ』」などと、出身俳優の名前が『テニミュ』の枕詞になることも多い。この場合、彼ら「“テニミュ出身”者の名前」が、『テニミュ』に箔を付けている。

 では、「テニミュ出身」の肩書きは、芸能人としてのテニミュ出身者の価値を高めているのだろうか。

 

 ここで、さきほどの小越さんに関する発言を思い出したい。「経歴とか投げ捨てて純粋な目で彼を見たい」とは、『テニミュ』に出ていたことが、彼の演技を観る際になんらかの影響を与えており、それを抜きにして現在の彼を評価したい、という意味だろう。実際に、「彼を称する時に過去の偉業を持ち出さなくても今の彼は誰もが目を見張るほど素晴らしい」との投稿が追加されている。

テニミュ出身」という肩書きは下駄になりうるかもしれないが、4年間で500公演以上を主演したという「偉業」は、小越さん自信がテニミュでつけた箔だ。つまり、小越さんは、『テニミュ』を通して自らの存在に箔をつけたのだ。単なる「テニミュ出身」とは異なる肩書を、彼は持っている。彼はプリンス・オブ・テニミュと呼ばれるほど『テニミュ』に貢献した人間だが、今後はその「偉業」を超える活躍を期待されているのだろう。

 

 では、あらためて「テニミュ出身」の肩書きは、芸能人としてのテニミュ出身者の価値を高めているか考えてみたい。テニミュはメチャメチャアツくて、キャストさんもスタッフさんもマジでがんばってて、テニスの王子様は本当に最高で、ここらへんの界隈では超名門のアカデミーみたいな感じの存在だってことを、私たちファンは誇りにしている。しかし実際には、私たちが思っているほど、「テニミュ出身」はご立派な肩書きではないのかもしれない。だからこそ、出演者だけでなく、その中身も見て、評価してほしいと思う。

 

 2か月前まで越前リョーマを演じていた古田さんは、このように語っている。*1

憧れだったテニミュ。そりゃこれくらいの年代で役者やってて男の子だったら出たいよ。

 オタク冥利に尽きるお言葉。

 テニミュが「そりゃこれくらいの年代で役者やってたら出たい」「憧れ」の存在であり続けると同時に、「テニミュ出身」の肩書きが、彼ら出演者にとっての威となるよう、ひとりのファンとして願っている。

 テニミュよ、威を借られる虎たれ。

いつか王子様が

 誰が呼んだか「王子様」。

 世間には「王子様」を題に含む作品や、そう呼ばれる有名人があふれている。これら「王子様」ブームの発端が『テニスの王子様』だと思うのは、テニプリファンだけではないはずだ。しかし、王子様とはいったい何者なのだろうか。

 

王子様とは――『テニスの王子様』における狭義と広義――

テニスの王子様』作中で初めて「王子様」という言葉が出てきたのは、第1話。竜崎スミレが、越前リョーマのことをそう呼んでいた。

 また、『テニスの王子様』の前身である『きんテニ』*1では、第3話で「王子様」が初登場する。雑誌に「テニス界の王子様(※「プリンス」のルビあり)」と紹介されている天才少年が、越前リョーマだったのだ。越前リョーマが『きんテニ』に初登場するこの第3話のタイトルは「テニスの王子様」である。

 漫画作品としての『テニスの王子様』『新テニスの王子様』では、「王子様」は、越前リョーマただ一人をさしている。

 

 ただし、【「王子様」=越前リョーマ】の式は、唯一の正解でありながら、狭義でもある。【「王子様」=『テニスの王子様』『新テニスの王子様』に登場するキャラクター】といった、広義の解釈もあるからだ。

 許斐先生が作詞を手掛けた「Dear Prince~テニスの王子様達へ~」*2では、「王子様」に「“達”」がついている。また、『放課後の王子様』1巻の帯には「王子様達の日常がココに!!」と書かれている。複数形にすることで、「王子様」と呼ばれる存在が二人以上いることがわかる。

 さらに、ファンブック『ペアプリ』に掲載されている番外編漫画のタイトルは、「プライベートの王子様」。この漫画でプライベートが描かれているのは越前リョーマだけではない。「王子様」と呼ばれるキャラクターは、越前リョーマの他にいても良いのだ。

テニスの王子様』の世界では、「テニスの王子様」は越前リョーマただ一人。しかし、社会=こちらの世界から見た場合などは、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』に登場する男性キャラクター全員を「王子様」と呼んでも良いと解釈している。

 

 

 「私の」「王子様」、「誰かの」「王子様」

 きょう私がポエムを書きたいのは、広義の「王子様」のなかでも、「私の」「王子様」についてである。

 テニプリキャラクターは皆王子様だと思ってはいるが、「私の」「王子様」は、宍戸亮だ。いま書いてて死ぬほど恥ずかしい。照れる。けれど本当に、断髪後に監督を見上げるあの表情を見た14歳のときから今までずっと、宍戸亮は私にとっての「王子様」なのだ。

 

 アニメやミュージカルなど、メディアミックスの多い『テニスの王子様』では、原作が逆輸入をおこなうことがしばしばある。キャラクターソングがサブタイトルになったり、ミュージカルで笑いをとるために使われたせりふが原作に登場したりする。

 宍戸亮は、そういった逆輸入の影響で、性格まで変わってしまったキャラクターのひとりだ。なぜなら、許斐先生は、『ペアプリ』での「長年描くなかで、描き方に変化はありましたか?」という質問にこう答えている。

「宍戸は、いい奴になってきたかな。最初は口の悪いチンピラみたいな奴だったんだけど…楠田くんがいい人すぎて(笑)。人の頑張りは評価する奴だし、今は嫌な部分がとれていい兄貴分になったね。」 *3

 また、ラジオに出演した際は、最初からイメージが変わったキャラクターに宍戸亮を挙げ、こう話していた。

「宍戸は描いててだんだん楠田さんになっていくような……最初はすごくイヤな奴で描いてたりしたのが、楠田さんのいい人イズムが、優しくて、長太郎を守るような感じに……」

 つまり、いま私たちが見ている原作の宍戸亮は、声優・楠田敏之さんの要素を多分に含んでいるというのだ。

 私たちが見てきた宍戸亮は、私がこだわって愛してきた「原作の」宍戸亮は、もはや14年前に見た宍戸亮ではないというのか。宍戸亮アイデンティティはどこへいってしまったのかと頭を抱えた。

 

 しかしその後、友人との会話によって、重大なことに気付かされた。私がこれまで愛してきた「宍戸亮」は、すでに原作から、もちろんアニメからもミュージカルからも離れた唯一の存在になっていることに。

 哲学だ。だが、確かに、そのとおりだと思った。

 夢女(あるいは腐女子)である「私の」「王子様」の「宍戸亮」は、私仕様に都合よく解釈された存在なのだ。どれだけ原作に忠実に妄想しているつもりでも、それは、必ずしも原作の宍戸亮とは一致しない。

 例をあげよう。

 私は日常生活で起こったありとあらゆることを宍戸亮や王子様たちに変換して妄想する癖がある。たとえば車に乗っているとき、「宍戸亮の運転する車の助手席で私が寝てしまったら、それに気付いた彼はオーディオのボリュームとエアコンの設定温度をすこし変えてくれるんだ……宍戸亮は車にブランケットとか積んでないからなあ……」などと想像している。

 まず、この妄想に出てくる「宍戸亮」は、実際の=原作の年齢ではない。彼は15歳で、車の免許は18歳以上でないと取れないのだから。そのうえ都内に住んで自家用車を持っているらしいので、おそらく25歳はこえているだろう。さらに「車に毛布とか積まない」という、私の理想を押し付けた設定が採用されている。

 そして、この妄想に登場する「私」は、完全に私である。そんな「私」とつるんでいる「宍戸亮」の姿が、そもそも原作を完全に無視しているし、宍戸亮の存在する場所をねじまげてしまってさえいる。

 そう、私が頭の中で夢想する「宍戸亮」は、もはや原作の宍戸亮ではない。原作の宍戸亮をベースに、ファンブックの設定や完全版の情報、ゲーム、キャラクターソング、スピンオフ漫画、あるいは現実世界で関わった人間などの様々な情報をいいとこ取りで付け足し、都合の悪い部分は「これは原作じゃないから」などと言って差し引き、私仕様にカスタマイズされた架空の理想の王子様と化しているのだ。

 

 先日、テニミュを観たあとに、深刻な原作大石ファンが「いつか理想の大石くんに会えるのかな」とつぶやいた。私たちは食事の手を止め語り合った。行間ならぬコマとコマの間を生きる“彼”の、ふとしたときの仕草や口調。テニミュはその部分を舞台上で見せてくれるが、それらが自分の想像と一致する日は来るのだろうか、と。

 結論は「絶対に来ない」だった。

 きっとこの先テニミュが何十年続いたとしても、「私の」思い描く最高の「宍戸亮」には出会えない。なぜなら、彼らの頭の中にもまた「俺の」「宍戸亮」がいて、彼らはその姿を演じているからだ。自分に合わせて、チームメイトに合わせて、対戦相手に合わせて、その場にふさわしい「宍戸亮」をつくりあげているからだ。彼らにとっての「俺の」「宍戸亮」と、「私の」「宍戸亮」は、もはや異なる存在なのだ。だからこそ、自分が「私の」「宍戸亮」を夢想しているかぎり、「誰かの」「宍戸亮」を否定することはできないのだ。

 

 許斐先生も、完全版Season3の11巻*4において、原作最終回と異なるエピソードを描き下ろし、「積み重ねた出来事のチョットした違いで、こんな未来もあるんだなと思って下さい」と語っている。少し違う未来やキャラクターの姿を想像することが読者に許されているような気がしてくる。テニスの王子様は優しい世界だ。

 

 

「王子」で辞書*5を引くと、このように書かれている。

1 王の息子。⇔王女。
親王宣下のない皇族の男子。 
大切に思う男性。大事にされている男児「我が家の―」
その団体や分野などで実力・人気があり、容貌 (ようぼう) もすぐれた若い男性。「クラスの―様」

テニスの王子様』にかんして、作中やメディアで多用される「王子様」は、おそらく4番目の意味を持っているのだろう。しかし、「私の」だったり、「誰かの」だったりする「王子様」は、3番目の意味も持っている。

 許斐先生は、自身名義の曲「Smile」*6のなかで、こんな詞を歌っている。

いつまででも キミの王子様は

信じてれば必ずそばにいるから Smile 

 どこかの国の王子様でもなければ、人からそう呼ばれるわけでもない。それでも“彼”ーー「私の」「宍戸亮」は、「私の」「王子様」だ。いつか目の前に触れるかたちで現れてくれないとしても、永遠に、私ひとりだけのための「王子様」なのだ。

2016年9月25日18:00公演の記録

“The show must go on.”を、『テニスの王子様』の世界観に合わせて訳すとどうなるのだろう。

 

 そんなことを考えながら、スクリーンを観ていた。会場の水道橋から直線で数十キロ離れた幕張のライブビューイング会場にも、舞台上の緊張感が痛いほど伝わってきた。生で見ているわけではなくとも、観客皆が息を飲んだのがわかった。おそらく、日本中、海を渡った街の映画館にも、同じ空気が流れていたのだろう。皆、胸をしめつけられるような思いをさせられたのだろう。狂気を感じるほどの「手塚国光」に。

 

「ミュージカル『テニスの王子様』3rdシーズン 青学VS氷帝」の千穐楽公演において、手塚国光を演じる財木さんが、舞台上でケガをするというアクシデントが発生した。

  WOWOWでは「稽古場から感動の大千秋楽まで完全密着!」と銘打った特番を流すらしい*1。もしも私がWOWOWのカメラマンだったとして、こんなアクシデントを見たらガッツポーズをしてしまうに違いない。しかし、きっと「テニミュ」は、この“ミス”をおおやけにはしないだろう。知らんけど。だからここに記録しておきたい。

 

 流血の原因は何だったのか、詳しいことはわからない。私はその瞬間を観ていないので、「おそらくこういうことがあったんだろう」と推測するしかできない。私が知覚したのは、3幕の「一騎討ち」では、いつも安定している手塚の歌声が不安定で、ラストの「生み出していこう」が全く伸びていなかったこと。そのあとスクリーンに映し出された手塚のユニフォームに血がついていたこと。手塚の右頬を血が伝い落ちていたこと。それでも試合は続けられたこと。ユニフォームについた血が、みるみるうちに増えていったこと。それくらい。

 手塚の、3Dプリンターで造られたような美しい輪郭に沿って落ちる血は赤黒く、汗を吸ったユニフォームを汚す血は薄い朱色に見えた。全国氷帝公演で桃城が額から流す血や、四天宝寺戦で河村のユニフォームを汚す血糊とは、なにもかもが違った。色や質感だけの問題ではなく、それを取り囲む空気が。

  その場面は、まさに試合の、いや、この公演最大の見せ場だった。肘に古傷を抱えながら、自分の腕を犠牲にしてでも勝利しようとする手塚。原作に描かれたその手塚の姿と、頭部から血を流しながらも試合を続ける舞台上の手塚の姿が重なって見えた。

 話が進み、手塚は肩の痛みのため膝をつく。それでも試合を続けようとする手塚に、チームメイトは「棄権しろ」と説得を試みる。ここでの鬼気迫ったせりふや、観客から見えないよう手塚を囲み素早く処置をする青学メンバーの対応はすばらしかった。そして越前は、なにも行動を起こさず、いつも通り階段に座っていた。全員が、『テニスの王子様』の世界を崩さず、キャラクターを崩さず、事故などなかったことにした。

 そして、手塚と対峙する跡部も、もはや2次元なのか3次元なのかわからないほどの気迫で試合を続けていた。「ちっとも嬉しそうじゃねぇ」表情も、長いモノローグも、演技と現実が重なって、怖いくらいだった。

 フィクションが、目の前でノンフィクションになっていき(原作では手塚は流血してないけど)、しかし演者たちはあくまでもフィクションであろうとする。“The show must go on.”――「まだ試合は終わっていない」の精神で。ものすごい瞬間に遭遇したような気がする。

すさまじきもの2016

 すさまじきもの。

「座席当選アナザーショット・サイン入りポストカード・柱巻きをお譲りいただける方優先」条件つきの譲渡記事。まして、事前のメールではそんな話をまったくしていなかったのに、会場前で「柱巻きとTSC引き換えはあげますけど、座席当選したら権利は返してください」と突然言ってくる者は、いとすさまじ。

「〇〇(キャラクター名やキャスト名)のアナザーショットまたはサイン入りポスカをお譲りいただける方はチケット代いりません」などと書いてあろうものなら、いとわびしく、すさまじ。

 

◆注釈

 「アナザーショット」…最近のテニミュでは、座席番号による抽選が毎公演おこなわれ、当選者には非売品の生写真がプレゼントされる。当選し、生写真を引き取るためには座席番号の書かれたチケットの半券が必要。私たちはこれを「座席当選」「アナザーショット」等と呼んでいる。

「サイン入りポストカード」…テニミュサポーターズクラブ(以下TSC)会員は、テニミュの会場でポストカードを1枚もらえる。そのポストカードのなかに、ランダムでキャストのサイン入りのものがあり、引き当てるとスタッフさんがベルを鳴らしてお祝いしてくれる。

「柱巻き」…テニミュ公演後に配布される紙。渋谷に掲示されていた柱巻き広告と同じデザインのため、「柱巻き」と呼ばれている。

 

 

 すさまじい。

 この夏に何度も目にしたこのようなチケット譲渡・交換の現状に対して、私が抱いた感情を最も適切に表現する言葉は、「すさまじい」だろう。

 もちろん、これまでもそういった条件つき譲渡がなかったわけではない。しかし、この夏は、特に「条件」が目についた。「条件」が提示されていなくても、譲渡を求める側が自ら「半券お返しします、柱巻きもあげます、ですから譲ってください」などとコメントしていることもある。すでに持っている写真やグッズをオマケでつけます、といったオークション状態になっていることもあった。一概に譲る側だけを責められるものではない。

 思い返せば、セカンドシーズンのアナザーショットは、別に写りが良いわけでもない、ロゴが入っているわけでもない、白背景のシンプルな全身ショットだった。チケットがあまり売れていないときに作られた消費者インセンティブ。プレミア感は薄かった。だが、サードシーズンのアナザーショットには枠やロゴがうつっており、セカンドのものに比べても、なんだかとても良いものをもらったような気になる。貰えないよりは貰えたほうが断然嬉しい。

 けれども、だからって、そんなむちゃくちゃな。そんなむちゃくちゃな話があるか。

 

 私はこの夏に、数名からチケットを譲っていただいた。

 そのうちの一人とのやりとりが、冒頭に記したものだ。事前のメールではそんな話をまったくしていなかったのに、会場前で「柱巻きとTSC引き換えはあげますけど、座席当選したら権利は返してください」と言う。さも当然のように。了承はしたが、そのときに感じたもやもやが、2か月経った今でも残っている。どうしてもアナザーショットが欲しいわけではない。けれど、権利を「返せ」というのは何かが違うだろうと。名前や引き取り店名の入っている半券を、個人情報だから出口で返せというなら何の異論もないが、そういった趣旨でもないようだ。その公演では当選しなかったが、外れたことでとても安堵したのを覚えている。こういったやりとりはごく普通なのだろうか。

 しかし、もやもやしたのは一度きりで、他の方とのやりとりはとても穏やかに済んだ。譲渡記事の文面から嗅ぎ分けたのもあるが、「そういう」考えの人ばかりではないらしい。

 

 

 テニミュのチケット定価である6,000円は、舞台を見るために私たちが払う代価だ。また、消費者が「アナザーショット」や「ポストカード」、「柱巻き」を得るのは、供給側から与えられた権利だ。この権利は、6,000円のなかに含まれているはずなのである。

 その権利をめぐって「譲渡する」側と「譲渡していただく」側、消費者同士があれやこれやするのは本当にすさまじいなあと感じさせられる、2016年の夏だった。